談 no.116
ゼロ度の隔たり……ガラス・イメージ論
文化、芸術、思想、科学などについて各界気鋭の論壇を招き、深く掘り下げるワンテーマ誌。
著者 | 公益財団法人 たばこ総合研究センター 編著 福尾 匠 著 藤田 一郎 著 越智 啓太 著 |
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シリーズ | 談 |
出版年月日 | 2019/11/01 |
ISBN | 9784880654744 |
判型・ページ数 | B5並製・90ページ |
定価 | 880円(本体800円+税) |
在庫 | 在庫あり |
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内容説明
特集 ゼロ度の隔たり……ガラス・イメージ論
「〈見えている〉という〈状況〉は私自身を取り込み、私を包んでの風景が〈見えている〉ということなのである。それは一つの全体的(、、、)〈状況〉であり、全体的(、、、)〈場〉なのだ。この全体的〈場〉の中においてのみ、ここの私とあそこの絵、あるいは目をそちらに向けている私とあそこに〈見えている〉絵、という〈関係〉が成り立ちうるのであって、それを成り立たしめている〈場〉である〈見えている〉という状態とはなんの〈関係〉でもないのである」(大森荘蔵)。
われわれの生きている現実とは、このような世界のことではなかろうか。そして、われわれはこの場所おいて、初めて実在する「もの」たちと出会うことができるのである。透かし見ているのは「私」ではない。また、他の誰でもない。透かし見る人などどこにもいないのだ。その透かし見る世界=透視風景がかくあること、そのことが「私」がかくあることであり、「私」がここにいる、ここに生きているそのことなのである。
私が「見えている」から始まるゼロ度の知覚。しかし、そこにはすでに私もいないのだ。
目次
福尾匠(横浜国立大学博士後期課程・日本学術振興会特別研究員(DCI)。専門は、現代フランス哲学、批評)
影絵が映画のモデルとなったのは、いつ頃からだろうか。それは端的に素朴なリアリズムであり、代わって、ガラスこそ映画ではないかと福尾匠氏は主張する。ガラスは、外の景色が見えると同時にこちら側の世界も映り込む。客観的なものと主観的なものを同時に存在させてしまうガラス。映画を透明なメディウム=ガラスとして捉え直し、映画を見るとはどのような経験をいうのか、あらためて考察する。
〈ガラスと認知機能〉見えるものと見えないものの対話
藤田一郎(大阪大学大学院生命機能研究科および脳情報通信研究センター教授。専門は、認知脳科学)
これまで、ものを見てなんであるかを意識的に感じ、それにもとづいて視覚対象に働きかけていると考えられていた。しかし、最新の脳科学研究で、見えることと見たものに働きかけることは独立した別々の出来事であることがわかってきたのだ。見ることにおいて、「ものが見えるという主観体験が生じる」ことと、「見ることに依存して行動を起こす」ことが、あたかも協同しているように見えるのはなぜだろうか。脳と認知機能の不思議で複雑な関係を藤田一郎氏が解き明かす。
〈ガラスとフォールスメモリー〉見られた記憶は本物なのか
越智啓太(法政大学文学部心理学科教授。臨床心理士)
私たちは、多くの思い出をもっている。楽しい思い出もあれば、悲しい思い出もある。時には、思い出に苦しめられることもある。思い出は、まさに人生そのものだ。ただ、その思い出たちが「本物」かどうかいうと、じつはかなりあやしいということが、最近の記憶研究からわかってきた。記憶の書き換えでつくられるフォールスメモリーについて、視覚経験とのかかわりから考察する。