文化、芸術、思想、科学などについて各界気鋭の論壇を招き、深く掘り下げるワンテーマ誌。
著者 | 正木 晃 著 石飛 道子 著 彌永 信美 著 公益財団法人 たばこ総合研究センター 編 |
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シリーズ | 談 |
出版年月日 | 2024/11/01 |
ISBN | 9784880655741 |
判型・ページ数 | B5並製・90ページ |
定価 | 880円(本体800円+税) |
在庫 | 在庫あり |
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内容説明
「色即是空、空即是色」、日本人なら誰もが知る『般若心経』の一文だ。
仏教教義を示すことばのなかで、たぶん最もよく知られた文だが、意外にもその概念の解釈をめぐっては、今日でも議論がたえないという。学界の共通理解といえるようなものさえほとんど存在しないのが現状だと宗教学者の彌永信美氏は言う。それらの議論の中身を探ってみると、根本的な理解の相違がある。
その相違とは何か、一言で言えば、「空」を現実的肯定的な意味をもつものと捉えるか、あるいはその逆と捉えるか、ということに帰するというのである。そして、それは、仏教をどのような宗教と考えるか、という根本的な問題に直結するというのだ。
仏教は、人々の信仰や実践の「すそ野」をもちながら、きわめて知的で哲学的な理論である。その意味で、仏教は宗教を超えた宗教、一種のメタ宗教であるともいえるのだ。
目次
「空という泡沫(あぶく)」
正木晃(早稲田大学オープンカレッジ講師、専門は宗教学)
「世界は泡沫、まぼろしのようだ」という。「泡沫」はあぶくであり、いずれは消えるものである。「まぼろし」とは当人は存在すると思っているが、じつは存在していなかったという仮象のことをいう。つまり、「無」が「空」であるというわけだ。
世界が空であるとすれば、その世界に属する自己(自我)もまた空であり、自我が空であるであるということは、死もまた空ということで、恐れるに足らずということだ。
自我は空であるという教えは、「諸法無我」の教えと呼ばれてきた。ダルマ(仏法)は、あらゆるものには「実体」(我=アートマン)がないという真理である。したがって、自我に執着する必要はない。なぜなら、自我自体が存在しないのだから。これは非常に面白い。バラモン教(ウパニシャッド)の教えが「梵我一如」、すなわち、自己の本体(アートマン)と宇宙の本体(ブラフマン)が一体のものであるという究極の真理をブッダが自ら否定するのである。ブッダが最後に悟った真理は、バラモン教は成立しないということだ。バラモン教の否定こそ、「空」の意味そのものなのだ。
〈ブッダとナーガルジュナ〉
「中身は空っぽ」とはいかなることか
石飛道子(北星学園大学非常勤講師、札幌大谷大学特任教授、専門はインド哲学)
どんなすぐれた見解でも、押しつけられるならば、それは苦しみである。例外なく、あらゆる見解から離れるのだから、空性それ自体は見解ではない。「空性という見解をもつ」とは、たとえば、「空であるものは、一切のものである」と主張するような場合である。空性を見解としてもってしまうと、空性に到達することはできない。もし空性を見解としてもつなら、最強の論理になってあらゆるものに適用できる。そうなると、逆に、空性という見解それ自体は空性の論理が及ぶことができず、一切世界からはじき出されることになるのである。したがって、仏教においては、「空」をもちだして、反対する人々と争うことはない。ここが重要である。「空」は、空っぽという意味のとおり、人々を圧迫したり威圧したりすることはない。けっして人々に苦痛をもたらすことはないのである。
〈語りえぬものへ〉
縁起から空への「飛躍」
彌永信美(専攻は仏教学、仏教神話研究)
思想における「空」とは、一切の言語的表現や思念を超えた超越、あるいは絶対の別名であって、その「絶対」について人間が考え、あるいは体験し得ることはほとんどないといえる。この種の思考体験は、あらゆる概念の二項対立を止揚し、不二の超越的次元に「超越-突入」することを試みる。「非在」に対立するところの「存在」は「絶対」を指し示すものではない。「空」や「無」は、そのような「存在/非在」の対立を「空に帰した」ところで現れる超-存在論的境地を表現するのである。言語表現や思考が希薄になって、ほとんどの概念が使用不可能になっていく、そのような次元に残った数少ない表現のひとつが「空」であり「無」であると彌永氏は言う。「色即是空、空即是色」の「空」がこのような絶対を示すものであるならば、このことばは、「現実世界はそのまま絶対である、絶対がそのまま現実世界である」ということを意味することになるのである。