内容説明
特集 死者と霊性
近代の価値観は崩壊し、理想や希望を失って、弱肉強食のポスト近代へと突入している。私たちは、その状況に身を任せるより他に道はないのか、それが私(たち)にとっての最大の問題である。そのなかで、はたして近代は、本当に終焉したのであろうか。
近代のなかで、無視され、抑圧され、いじめ抜かれながらも、それでもしぶとく根を張り、生き抜いてきた異なる発想、もうひとつの近代があったのではないか、それを発掘することで、ポスト近代のニヒリズムに抗しつつ、理想や希望を取り戻すことができるのではないか。それが死者や霊性の問題であり〈精神的〉東洋に着目する理由である。
*本誌はno.132を持ちまして休刊させていただきます。創刊以来ご愛読いただきました皆様に御礼申し上げます。
目次
〈ポスト近代と霊性的世界〉
・世界の破れと可能性としての「霊性」
末木文美士(国際日本文化研究センター名誉教授/宗教学)
はたして法身・真如への深化と超越神への世界の超越とは相互に対立的で、相容れないものだろうか。この問題は、十分慎重に考える必要がある、というのは末木文美士氏だ。レヴィナスの用語を使えば、「全体性」と「無限」とは本当に対立的なのか、ということである。あるいはこう言い換えることもできる。神秘主義と超越神とは両立しえるものなのか、と。安易な折衷はしてはならないが、末木氏は相互に排他的ではないだろうという予測はできると付け加える。というのも、法身・真如への沈潜、そのままずっと奥まで進んだ時、はたして世界の「破れ」がないといえるだろうか、という疑問があるからである。
他者=霊性的世界もまた、完結し、閉鎖されたものではないはずである。その「破れ」が、さらに他者=霊性的世界の「外」に 通ずる「穴」となるならば、他者=霊性的世界を超越した「存在なき神」に行き当たることも、十分にあり得るではないか。そうとすれば、超越神的世界と神秘主義的世界とは必ずし相反的とはいえないのではないか、と思われるのである。今日他者=霊性的世界を考える意味は、まさにここにある。
〈生者と死者〉
・生者の世界と死者の世界が交差する場
立川武蔵(国立民族学博物館名誉教授/インド学)
ヒトは心肺停止において決定的な死を迎えるが、それ以前においても、老いた人も若い人も、度合いの違いはあるが死者であることには違いない。わたしたち生きてる者がこの世で問題にすることができるのは、われわれの予期する死と記憶にある死者たちだけである。
われわれは、この世とあの世、すなわち生者の世界と死者の世界の間で生きている。あの世とこの世の間にある生と死の交わりは、仏教が常に扱ってきた問題だ。仏教にとって世界とは、生命あるものと死の世界が交差する場である。そこは、生者の世界と死者の世界が唯一交わり続ける場所である限り、生きている者たちが死者にどのように向き合うのか、生者自身が考える場でもあるのだ。
〈呪術としての言語と聖なる言葉〉
・起源へ…〈精神的〉東洋と井筒俊彦の思想
安藤礼二(多摩美術大学美術学部芸術学科教授/文芸評論)
井筒俊彦氏はイスラム思想史の研究者で、コーランをはじめてアラビア語から日本語に翻訳して紹介した人として知られている。井筒氏は、なぜコーランに関心をもったのかといえば、それはコーランが神の言葉だからだという。神が一人の人間を選び、預言者(神の言葉を預かる者)としてその人の口を借りて言葉を発する。まさに究極の聖なる言葉だ。それは実際に歴史のなかで起こったことであり、いまだに世界を揺り動かしている。井筒氏は、イスラムに興味をもったから預言者を研究したのではなく、預言者に興味をもったから、預言者がどういう場所に、どのような現れ方をしたのか、イスラムを通して研究したのである。これが、井筒のイスラム研究のアルファでありオメガだ。
【特別企画】
・思想の現在地…『談』の40年を振り返りながら
佐藤真(「談」編集長)
・世界の破れと可能性としての「霊性」
末木文美士(国際日本文化研究センター名誉教授/宗教学)
はたして法身・真如への深化と超越神への世界の超越とは相互に対立的で、相容れないものだろうか。この問題は、十分慎重に考える必要がある、というのは末木文美士氏だ。レヴィナスの用語を使えば、「全体性」と「無限」とは本当に対立的なのか、ということである。あるいはこう言い換えることもできる。神秘主義と超越神とは両立しえるものなのか、と。安易な折衷はしてはならないが、末木氏は相互に排他的ではないだろうという予測はできると付け加える。というのも、法身・真如への沈潜、そのままずっと奥まで進んだ時、はたして世界の「破れ」がないといえるだろうか、という疑問があるからである。
他者=霊性的世界もまた、完結し、閉鎖されたものではないはずである。その「破れ」が、さらに他者=霊性的世界の「外」に 通ずる「穴」となるならば、他者=霊性的世界を超越した「存在なき神」に行き当たることも、十分にあり得るではないか。そうとすれば、超越神的世界と神秘主義的世界とは必ずし相反的とはいえないのではないか、と思われるのである。今日他者=霊性的世界を考える意味は、まさにここにある。
〈生者と死者〉
・生者の世界と死者の世界が交差する場
立川武蔵(国立民族学博物館名誉教授/インド学)
ヒトは心肺停止において決定的な死を迎えるが、それ以前においても、老いた人も若い人も、度合いの違いはあるが死者であることには違いない。わたしたち生きてる者がこの世で問題にすることができるのは、われわれの予期する死と記憶にある死者たちだけである。
われわれは、この世とあの世、すなわち生者の世界と死者の世界の間で生きている。あの世とこの世の間にある生と死の交わりは、仏教が常に扱ってきた問題だ。仏教にとって世界とは、生命あるものと死の世界が交差する場である。そこは、生者の世界と死者の世界が唯一交わり続ける場所である限り、生きている者たちが死者にどのように向き合うのか、生者自身が考える場でもあるのだ。
〈呪術としての言語と聖なる言葉〉
・起源へ…〈精神的〉東洋と井筒俊彦の思想
安藤礼二(多摩美術大学美術学部芸術学科教授/文芸評論)
井筒俊彦氏はイスラム思想史の研究者で、コーランをはじめてアラビア語から日本語に翻訳して紹介した人として知られている。井筒氏は、なぜコーランに関心をもったのかといえば、それはコーランが神の言葉だからだという。神が一人の人間を選び、預言者(神の言葉を預かる者)としてその人の口を借りて言葉を発する。まさに究極の聖なる言葉だ。それは実際に歴史のなかで起こったことであり、いまだに世界を揺り動かしている。井筒氏は、イスラムに興味をもったから預言者を研究したのではなく、預言者に興味をもったから、預言者がどういう場所に、どのような現れ方をしたのか、イスラムを通して研究したのである。これが、井筒のイスラム研究のアルファでありオメガだ。
【特別企画】
・思想の現在地…『談』の40年を振り返りながら
佐藤真(「談」編集長)